鹿目まどかについて

まどか☆マギカの11話と12話を観終わったので感想っぽいもの。

はじめはまどかが負債を背負いこむ締め方になったのがすごく気に入らなかった。けっきょく、まどかには実力があって、ほむらには実力がなかった。だから、ほむらには成し遂げられなかったのだ、って考えるとすごく虚しいというか、まどかのエクス・デウス・マキナっぷりが白々しく感じてきた。

しかし、冷静になって見返してみると、ほむらは「やり直し」がしたいと願っていまここにいるわけで、まどかとしあわせに過ごす道が開かれたわけじゃなかった。むしろ、ほむらは本質的に過去にこだわっていて、前提となる過去が変わらないかぎり、そこから導き出される未来も変わらないのは、当たり前のことだった。

3話でマミさんが死んでから、契約するかどうか、から「なぜ契約するのか (あるいはしないのか)」に視点がはっきりとシフトした。序々に重さと暗さと理不尽さを増しながら明かされていく契約のリスクを知りながら、なぜ、まどかは契約するのだろうか、あるいはしないのだろうか、ということを考えるうちに、ひとつの予想……というより希望を立てた。

まどかは「正しさを知り、体現できる」知性の持ち主として描かれていて、それは過酷な現実に晒されている魔法少女たちと比較すると時にはひどく理想主義に走っているようにみえる。しかし、この現状を打破するためにはむしろその理想主義が生き残ることが重要で、ほかの魔法少女たちの現実 (死) を経てステージの上昇した理想主義に至ることこそが、まどかの役目であり、目標であり、希望なのではないか、とおもった。

つまり、マミさんの無批判な態度、さやかと杏子の現実に屈する弱さ、ほむらの過去 (とまどか) への束縛、これらを打破し、システムへの批判、理想を貫く強さ、あらゆる束縛からの開放に至ってはじめて、まどかは物語にハッピーエンドをもたらすのだと考えた。

まどかが人の領域を越えて、人としてのしあわせを掴むことを諦めたときに、ひどく落胆した。つまりこれは自己犠牲じゃないか、と。けっきょくまどかを消費したうえでのハッピーエンドならQBたちと変わらないじゃないか、と。

しかし、まどかは自身も救っている。「過去、未来、すべての魔法少女を絶望から救う」という願いは、自身が集めたすべての魔法少女たちの絶望すら消し飛ばして、まどかも絶望に陥ることはなかった。まどかはたしかに人としてのしあわせ (ほむらが言ったように、誰かと触れ合うだとか共に過ごすだとか) は得られなくなったが、まどかは、そして人々は願いの果てに約束されていた絶望から開放され、希望のままに願う可能性を得た。たぶん、これがまどかにとってのしあわせであり、人々が望んだしあわせなのだとおもう。

ではほむらはしあわせなのか? まどかとの未来を夢見ていた彼女はそれが叶わなくなったこれからについて、しあわせだと言えるのか。たぶん、『まどか☆マギカ』は彼女がまどかがいない未来をしあわせだとおもえるようになることで、はじめて物語として完成するのだとおもう。ほむらが「まどかがいない世界を肯定する」という抑圧的な意味ではなく、「まどかの存在をこの世界で信じられる」という広がりのある意味で未来に希望を抱くことができたときに、はじめて完成し終わるのだとおもう。もちろん、未来というのは無限であり、ほむらが存在する限り希望を抱いていくことが完結の条件という意味では、『まどか☆マギカ』は終わらないのだとおもう。ある意味で、過去に束縛されたほむらが前を向いて生きるための更生物語といえる気もする。

けっきょく、さやかも杏子もなにもかもの救いを得られたわけではなかった。さやかが救われないということは、杏子も救われないということだからだ。それでもエンドカードはひとつの可能性としてすごく夢のあるものだったし、救いというならそれで十分のような気もする。