目的と意味

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

頭の中にずっと残っている風景と音楽というものがあって、それを求めて写真と音楽を続けている。

残っている、というのも正しくなくて、頭の中に漠然とある。実際に見たこと・聴いたことがあるのかわからないし、実在するものかどうかもわからない。そもそもそれが風景と音楽なのかもよくわからない。

ただ、漠然とした「感覚」があって、それに会いたいのだとおもう。

もちろん、写真や音楽をするにしても、ただそんな漠然としたことしか考えていないわけではなくて、具体的・技術的な方法論を模索してはいる。むしろ、そうした方法論のほうが興味がある。たぶん、具体的だから考えやすい、というのもあるだろう。

自分が写真や音楽に触れることについて、表現だとか創作という言葉は相応しくないとおもっている。ずっと、探しているのだ。会いにいく。

また、音楽や写真で会話的なコミュニケーションができるとは考えていなくて、リアルタイム性の低い、一方的な性質の、孤独なコミュニケーションがそこにあると考えている。会話的なコミュニケーションは会話的な手段で行えばよいし、わざわざ抽象的で漠然とした媒体を選ばなくていい。

他人を目指したものは、他人以外のどこにも行けないとおもっている。他人を目指せば、必ず他の誰かに辿り着くだろう。

だけど、孤独なまま生まれたものは自身を目指しているが、自身の絶対的な座標を知らないから、また自身を他人と見分けられないから、永遠にどこかに辿り着くことがなく、どこまでも飛んでいけるのだとおもう。偉大な芸術家がさもあれば人格破綻者として扱われたことには、こういう理由があったのではないか、とおもっている。

他人を目指したものを正しくないとは言わないが、孤独なそれのほうがより美しくなれる、とぼくは言う。

なにより、ぼくの知らないなにかに出会える可能性があるのだから、そちらを目指す。