あんまり「○○みて泣いた」って言うのは、キモいなーとおもっているので言わないようにしているんだけど、何度読んでも改蔵の最終回は涙が流れる。

久米田先生は、自分が描いてきた漫画を、そのキャラクターたちを、架空のものだと、実在しないものだと、幻想だと、そう言って一蹴するのではなく、彼らにも彼らなりの生活、人生、現実があるだろう、と、そういう意味でああいうオチをつけたのかもしれない。

漫画やアニメを虚構だとして、現実ではない、と片付けてしまったほうが便利なのは、おおむね賛成だ。ふだん生きていく中で、「現実とはなにか」というのはたいてい考える必要のない(価値のない)問題だ。就職だとか政治だとかリア充だとか、だいたい辛いことがあるところが現実である。

でも、現実とはなにか、とか、そういうことを考えるときに、「現実」の定義はきちんとするべきだし、そして現実は誰にあって、誰にないのか、ということはよく考えないといけない。

けっきょく、現実というのは自分たちがアクセスできる範囲、世界、概念、と言えるのではないかとおもう。だから、自分が理解できないなにかを目にしたとき、現実観が揺らぐのではないか。

物理的(といっていいものか…)に断絶が起きているので、漫画・アニメの世界にアクセスすることは敵わず、つまりそれが自分たちの現実とアニメや漫画との境界線だと考えてもいいとおもう。

だけど、漫画やアニメのキャラクターたちを虚構だというのには同意しかねる。そうであってほしい、という願望を別にして、だ。

おれは、「これは人間である」という宣言とともに、人格が与えられたのなら、それは人間と呼べる(少なくとも「人間らしさ」を備えている)と言えるとおもっている。

人格というのは思考回路とでも言うべきか、他人との意思疎通のパターンの集合とでも言うべきか。

余談だけど、そういう理由でTwitterbotbotである理由は、それが「botであると宣言されている」こと以外にはないとおもっている。それらしい会話をできるbotもあるし、これが「botである」という宣言がなかったら、つまり相手にした人に人間かどうか、の判断を委ねたら、はたしてどれくらいの人たちが、「これはbotである」と判断できるだろうか。

本論に戻る。そういった、人格が与えられて、人間というラベルを貼られたら、それはもう人間であるとみなして問題ないとおもう。

実際、人間は会ったことも、見たこともない人のほうが多い。北海道以外にも、日本以外にも、人間は生きているけど、おれは見たことがないし、会ったこともない。

そこに人間の存在を信じるかどうかは人それぞれだろうが、「おれが確認してないから、なんか、アメリカのオバマとかいうのは人間じゃない」とか言うのは早計すぎるだろう。

観測するまで存在を認めない、という宗派の人たちがいることは認める。でも、だからといって、存在を認められることについて一喜一憂する人間という種について、存在を否定する理由にはならない、とおもっている。

世の中には深く考えずに、「とりあえずそうなっているらしいから、そういうことにしておく」ほうがいいこともある。漫画・アニメは現実かどうか、みたいな話もそうだ。とりあえず非現実にしておけばいい、ってことになっている。おれも反対しない。

けど、そういった問題について考えだすなら、中途半端に『常識』というものに頼って、考えることに堕落してはいけないとおもう。たいてい、そういった堕落は、誰かを傷つけたり、深い断絶を呼ぶ。