日記

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

昼すぎ(午後2時)に起きた。いかんなあ、こんな生活では、とおもいつつ、早く面接の結果を電話してちょうだいよ、と八つ当たりする。

PCを起動する。Ubuntuの起動がすごくはやくて、やっぱりびっくりする。フォントのレンダリングの美しさとか、GUI全体の統一感みたいなものは、Aqua>GNOME>Lunaだなあとおもった。特にUbuntu 10.04 LTSのAmbienceってかっこいいな。IPAフォント入れたらヒラギノ入れてるMacと区別がつかないのではないか。それは言いすぎ?

なんにせよ、普段からよくつかうGUIがきれいであることはすばらしいことだ。

遅い昼御飯を食べてから、天気がいいし、出かけよう、とおもった。自転車で街中まで行って書店を見てきた。しかし、何も買う予定はなかったし、参考書をちょっと見てすぐに出て帰った。外に出ることが目的だったのでこれでよい。

帰ってきてから聴いていなかった今週分のさよなら絶望放送を聴いた。まつらい…松来さんは素敵なダーリンに出会えるとよいですね!もちろん新谷さんも!

それから、RubyGemsやRakeについて調べていた。いろいろ便利な使い方があって、すごいな、ありがたいな、とおもった。ここまで派手で大規模なものでなくても、だれかに「お、べんり」とおもってもらえるようななにかを作ってみたい、とますますおもうようになった。やっぱりRubyは書いていて楽しいなー。

けっきょく今日は勉強していない……。でも、書店で読んだ数IIICの参考書にあった合成関数のことが(前より)頭に入ってきた気がする。プログラミング言語には数学の概念を使いやすいように落としこまれた機能があったりするのだけど、おれは数学がさっぱり(寝てないぜ自慢とか勉強していないぜ自慢ではなく、わりと冗談にならないレベルでひどい)で、高校での範囲もI, A, IIまでしかやっていない(B以降は履修していない)のでそこらへんの知識(特に関数、線形代数について)がさっぱりなので、逆に慣れたプログラミング言語Ruby)で数学の概念を理解する、という逆転現象が起きている。

大学受験をするにあたって大事だなとおもうこと、逆に言うと自分に身についていないな、とおもうのは論理的なものごとの見方だ。ものごとを見るときに「感覚」で見るくせがあって、それは基盤となる知識がないから自分の経験にもとづく感覚でしか判断できないのだなあ、ということを痛感する。センター試験の読解問題はそういった「感覚」に頼らないものの見方ができれば(読解問題の)点数は安定するようにおもえるし、おれがセンター試験で失敗したのは知識のつめこみばかりにこだわっていたのがいけなかったのかなあ、という気がする。

論理的なものごとの見方を習得するため、そして純粋な知的好奇心から、もっと読書の習慣を持とう、とおもった。思い出せるかぎりで、教科書に載っていた小説や評論の原典を読んでみようとおもう。どれもおもしろいものばかりだったから。

だめだ、まとまった内容にならない…。

おれにとって、(高校までの)英語や国語の時間というのは、「読書をしていると出席したことになるよくわからないけどすばらしい時間」だった。ただ、現代文の題材が小説だと、一方的にエヴァの考察を聞かされているようなかんじで非常に不愉快ではあった。その点、英語は、教師が文法的なことしか口にしないので、安心して読書に没頭できたのでより好きになった。

特におもしろかったのは評論文だ。知識がない自分には、評論のひとつひとつがとても刺激的で驚きにあふれていた。

大学の入試や、学校での定期考査も、けっきょく新しい読書の題材をもらえる機会でしかない。それでもいくらかプレッシャーは受けるし、また、自分自身に「これはおもしろい題材だし、点数はとれるな」というプレッシャーをかける。

国語と英語を好きな教科に挙げる理由は、「機械的な『勉強している』という感覚から遠いから」となるのかもしれない。

理科は教科書だけではおもしろさが伝わらないし、社会(歴史)はものごとの関係が複雑すぎて教科書だけでは読み進めるのが困難だ。もちろん、そのために教師が授業をするわけだけど。

社会は(記述の信頼性はともかくとして)Wikipediaみたいな教科書があればすごく便利だ。理科のおもしろさがわかってきたのは、元素それぞれの用途がわかってきたからだ。

自分の中で社会や理科への興味というのは、中学生くらいで止まってしまっていて、高校以降でやる内容にもぜひ触れたいとおもう。だから、大学受験なんていうさまざまな自制を課してしまうめんどうごとは早く終わらせてしまいたい。