とりとめのない、まとまりのない、意味のない

催眠術が得意だ。別の言い方をすると、自分に対して役柄を設定し、それを全力で演じることができる。得意なことであり、なおかつ社会生活においてとても役に立っている。
たとえば、アルバイトなどでは「学生でありながら労働という社会経験を得ようとする貪欲な高校生」というキャラクターを設定する。演じるにあたって「役者」と「役柄」の距離はゼロだ。演じているというより、なりきっている、というほうが正しいかもしれない。
学校に遅刻してきたときは、体調を崩しながらも少しでも余裕があれば授業を受けようとする勤勉で意欲のある高校生、などになる。なりきるから、罪悪感もないし悪びれることもない。その瞬間、瞬間では間違いなく勤勉で意欲のある高校生だったからだ。
これは意識的に行っていて、すべて自分の意識の支配下で行われていることだと考えてきた。言い替えると、ある日突然、「授業がつまらないのでサボりました」と言い出す、「正直な高校生」にもなれると考えていた。生活する上でそうする必要性がなかったからしなかったんだ、と考えていた。
しかし、この自己催眠を行っているとき、たとえば不意の事故でその日の勤務に支障が出て、「今日はもういいから、帰っていいよ」と言われたとき、心から残念な気持ちになったりする。「素直な高校生」たる自分は、労せずアルバイトを切り上げられた、としたり顔をするはずなのに。「勤労意欲のある学生」の仮面がなかなか脱げないこともあった。
この世で一番怖いものは、「なにごとにも怠惰で無気力な青年」の顔と「社会生活上で考えられるもっとも綺麗な顔をしている青年」の顔をひとつにしようとする人間なんじゃないのか、とおもっていた。家族ではない。家族には家族用の顔がある。友達でもない。友達にも専用の顔がある。
恐らくこの世で最も危険なその敵は、おれの内面をこじあけようとするやつだ。おれに好意的である人間すべてだ。おれに好意を抱く人間すべてだ。好意というものも、そもそもは他人の内面をこじあけてみたい、という好奇心を隠すための鞘でしかない。「好きだよ」とか「大切だ」といった、人を認めることばは、「好意」を表現するときにも使われる。が、それらの言葉が「認めてほしい」「大切にしてほしい」という気持ちを満たしてくれるとは限らない。
ことばは曖昧で、ことばはたくさん存在する。語彙のことではない。発した彼の中にある「ことば」、受けとった自分の中にある「ことば」。コミュニケーションの齟齬とは、「ことば」のすれ違いのことだ。どうしても「ことば」は自分の知るだけが、自分の中にだけ存在するとおもいがちだ。だから、「人を認めることば」を求める人には、ささいなことばも「人を認めることば」に聞こえるかもしれない。
世の中にはそれを「弱い」と表現する人がいるかもしれない。しかし、単なる齟齬、聞き違いでしかない。弱さというのは強度の問題で、「ことば」に耐えられるかどうか、ということではないのか。お腹が減っている人が、食べ物の匂いや話題に敏感になることになぞらえて、「飢えている」と表現するほうが適しているかもしれない。
おれが自分自身について、友達や恋人といった「好意」が強く絡む人間関係のやりくりが下手だと自認するのも、「好意」アレルギーなんだ、という仮説が立った。他人からの「好意」を感じる度に、おれは人間関係を破壊してきた。いま、親しくしている人たちは「好意アレルギー」を患う以前、好意というものを透過的に扱えたころに出会った人たちばかりだ。
けっきょく、おれがすべきことは手に入れたかけがえのない関係を守り、新しい出会いは刹那的と割り切り継続することを望まない、ということだ。ただでさえ器量の小さい人間なのだから、守るもの、抱えるものの取捨選択は慎重に行わないといけない。これでもおれの器に収まるか怪しいけど。