死ぬことは、文学的で耽美なものであり、現実からの逃避の手段であるらしい。

「死にたい」とおもってよいのは、精神疾患を患い正常な思考・判断ができない人間か、深い悲しみや絶望を湛えた人に限られるらしい。

別に、おれは積極的に死にたいとおもっているわけではない。「死にたい」と言いたいわけでもないから、精神疾患を罹患する危険のある行為はしたくないし、悲しみや絶望を負っているふりもしたくない。もっと、日常に生きることがましなことであれば、生きていたいとおもうだろうし、死にたいとおもわないだろう。生きていたい、と意識することもなく、生きつづける日々だろう。

こういう弱音は言うとダメなやつ扱いされる。厳しい社会で生きていくのに、そんなんでどうする、負けてしまうぞ、と声がかけられる。

社会が厳しいところである必要があるのか? ばかばかしい。厳しいと嬉しい人間がいるのか? もし社会が厳しいことで得をする、優越感を感じる人間がいるのなら、社会が厳しい必然性は、そういう一部の人間に向かっていることになる。ばかばかしい。いないのなら、誰も得しないシステムをつくりだし、それを維持し、さらに参加することを必要としている、まったく理解できないものになっている。ばかばかしい。

基本的に社会というものは、「おれたちわたしたちは、こんな辛いおもいをしてきた。だから未来の人間が辛いおもいをしなくて済むのは癪だ」「おれたちわたしたちは、こんないいおもいをしてこなかった。だから未来の人間がいいおもいをするのは癪だ」といった感情にもとづき、運用されているようにおもえる。自分たちが相対的に不幸になることをよしとしない。絶対的不幸が訪れる (たとえばお金がなくなるとか) ならわかるが、あくまで比較したときの話で、不幸なおもいをする人間を増やしたり、幸せな人間を減らそうとするのはまったく理解できない。そんなの、不幸な人間は少ないほうがいいに決まっているし、幸せな人間は多いほうがいいに決まっている。

どうして現実から逃避しなきゃいけないのか。現実から逃避しているという人間を非難する人間の腹の底は、「おれだって辛いおもいをしているんだから、おまえも辛いおもいをしろよ」じゃないのか。そんなの、現実が楽しかったら逃避するはずがない。そういう修行じみたことをするのはかまわないが、どうしてそれを他人に強制しようとするのか。けっきょく、この世界は人間に辛いおもいをさせるために回りつづけている。

こういうことが辛いんだ、といっても、「でもきみより不幸な人間がいるんだよ」という言い回しを慰みとして返される。それでほんとうに、辛いおもいをしている人間を慰めようとしている。そして、その言葉を受けた人間は、とにかく、慰められようとする。義務だ。自分と同じように、あるいはそれ以上に辛いおもいをしている人間がいたら、自分の辛さを抑えなければいけない、という。誰も、辛いと言う人間から「辛い」と言わせるなにかを取り除こうとしない。みんな平等に不幸でなければいけない。

理解できないわけじゃない。好きになった人間に嫌われるくらいなら、死ぬか、殺してしまったら、「嫌われた」ということを知らずに済むから、結果として辛いおもいをしなくて済む、ということは既に発見した。でも、だからといって、世の中の夫婦や恋人たちがそのように考え、自殺や殺し合いになることなんか、望んでない。幸せな彼らをみていると、自分の惨めさを痛覚して、己が身を置く状況を呪う。もっとうまくやれなかったのか、と。幸せな彼らを叩いても幸せはもらえない。叩かれた彼らが痛いおもいをして、幸せな人間が減り、辛いおもいをする人間が増えるだけだ。

おれは恵まれた環境で育ち、いまもそこにいる。辛いことに敏感すぎるんだろう。自覚がある。辛いことに敏感なら、辛いことを集めて、おれが引き受けられたらいい、とおもう。幸せになって、そうでない人間に殺意を向けられる覚悟もないし、幸せになろうともがく気概もなくなった。自分が幸せになることへの執着がだいぶ薄れた。辛いおもいはしたくないが、特に幸せになりたいともおもわない。他人の幸せのためなら頑張れそうな気がする。他人の存在以外におれが辛いと感じたのは、お金の欠乏だったので、お金をたくさんもらえる仕事をして、幸せであってほしい、とおもった人にお金をあげよう、とおもう。そして、不幸連鎖の温床となっている社会というものをこわして、新しいシステムを考え出し、作らなければならない。人間の寿命のうちではとてもすべて達成できそうにない。何度か転生しなければならないだろう。たいへんそうだ。ばかばかしい。

ほんとうに殺したいのは、辛いおもいをしている人間なんだ。無理にここで生きる必要はないんじゃないか、と、別の解を出してあげたい。それが救いになるかどうかはわからないが、ここに精神的に束縛されているのなら、解放してあげたい。