将来の夢

この記事は筆者が見た夢を一人称視点で叙述した内容です。事実ではなく、実際の人物等とは一切関係ありません。

将来の夢

おれは人に笑われることが怖い。自分が大切にしてきたものの価値を一瞬で吹っ飛ばしてしまわれそうで、とても怖い。 怖いので、おれは自尊心を持たないように心がけている。自分が「価値がある」と認めるものが少なければ、それを笑われて社会的価値をゼロにされることもないだろう、という理屈。

だけど、たとえ他人からの評価が「なにそれ? ギャグかよwww」の一言で済まされてしまうリスクを抱えてでも、おれがおれの言葉で言わなければならない、自尊心を持たなければならないことがある。 そんな気がした。だからWebという、男も女も、若いも老いも、キモイもキモくないも、いろんなのが集まる場所に、晒すことにした。

「自分語りかよ (笑)」とか嘲笑の言葉は想像しても尽きない。けど、書く。そして晒す。


要するにおれは、自身の「将来の夢」というものについて書こうとしている。不言実行という価値観もあるけど、そういうものが関係ないことは既に書いたのでどうでもいい。

それで、「将来の夢」とは「世の中の人々を幸せにする」ということ。

おれはこれまでの20年に満たない人生を振り返って、率直に言って幸せだと思う。もっと言えば、幸せすぎると思う。 両親は健在だし、それなりに良い住居で過ごし、およそ不満と感じるところはない。欠けているところがないというのは、つまり満ち足りているということだと思う。

人との出会いにも恵まれた。友達と出会ったこともある。人並みに恋をしたことだってある。尊敬する人物や、憧れる人物も現れた。 悩みを打ち明けて、相談に乗ってもらうこともあった。相談に乗ることもあった。

何事も循環しなければいけないと思う。それは世界の物質的、精神的を問わないとも思っている。だから、水が川を流れ、海に出て、蒸発して雲になり、雨として降り注ぐように、 おれが貰い受けた幸せも還元していかなければならないんだ、ということに気がついた。


おれには「人に与えられる幸と不幸の絶対量はそれぞれ決まっている」という持論がある。つまり人生を総括して見たとき、幸せな人も不幸な人もいない、と。 なにをもって「幸せ」だとか「不幸」だとかとするのかは、きっと神様が決めるんだろう。神様というのは大袈裟だけど、「幸と不幸は与えられるもの」と考えるのならば、俯瞰する三人称が必要なわけで、 それを便宜的に「神様」とでもする。

だから「神様」が思うところの「幸せ」と「不幸」の量は均等に分配されていて、「悲劇的な人生」だとかっていうのはやっぱり「価値観の相違」なんだと思う。 でも考え方を変えれば、ある視点において人間は平等で、そして幸せも不幸もないんだ。

でもそんなことはあまり意味がない。人生の上に立つのは個々の人たちで、それを「幸せかどうか」という価値観でみるのも、やっぱり個々の人たちそれぞれなんだ。

やっぱり世界から「不幸な人たち」は消えないし、「幸せな人たち」も消えないんだと思う。それは仕方がない。だってそういう風にできている。

それでも、おれは幸せな時間を過ごした。不確かで曖昧な「幸せ」だけど、確かにおれは「幸せ」な瞬間にいた。なのに、「不幸」な瞬間に身を置いて、そこから抜け出せないでいる人がいることが許せない。 おれみたいな人間にも降り注いだ「幸せ」が、降り注がない場所があるなんて、許せない。

だから、おれは、おれが嫌いなんだ。幸せに溺れていて、幸せの尊さを知って、それでも幸せを還元できない、誰かを幸せにすることができない自分が、どうしようもなく憎くて、嫌いだ。 いなくなってしまえばいいと思う。おれがこれからも幸せでいられるなら、おれがいなくなれば、その分の幸せが誰かに降り注ぐかもしれない。 もっとも、そんなことよりもプリミティヴに、おれはおれについて、生きていること、存在していることが許しがたい。

おれは、おれであること、おれが生きていることが、たまらなく憎くて恥ずかしい。殺してしまおうかとも思った。でも、「おれが死んで、その分の幸せが誰かに与えられる」というのは想像に過ぎない。 おれのものになるはずだった幸せは、行き場を失って消えてしまうかもしれないし、そもそもおれがこの先も幸せを享受できる保証なんて、ない。 だったら、憎悪に任せて殺人を行い、悦に浸って死ぬよりも、自分自身の目で誰かが幸せになるところを見て、そして死ねばいいと思った。

けっきょく、「幸せ」というものは主観的なものだ。だから、第三者のおれが第三者である誰かを幸せにするなんてことは、現実的じゃない。 おれが考えていることは夢のような話かもしれないけど、それは規模だとか世界観の話であって、現実に行うことができなければならない。

そしておれは「その人がより多くのことを『幸せ』だと感じてもらえるようにする」ということが、「人を幸せにすること」だと定義した。 それを行うために何をしたらいいのか、考えたり調べたりしたけど、芳しい答えは得られなかった。 なので、おれは大学へ行って、その生活の中で具体的な答えを模索することに決めた。つまり、心理学を勉強しようと。

心理学を学ぼうとすることが正しいのか、他の学問の方がより適切なんじゃないか、とか、考え出したらきりがない。家計のことや社会人になったときの時差も見過ごせない。 それでも、おれが、誰かを幸せにできないでいることのほうが、よほど怖いし、許せない。だから、間違えないことよりも間違えることを選ぶことにした。


くだらないことだけど。それこそ夢のような話。もしも、おれがありとあらゆる「不幸」を受けることで、誰かを幸せにすることができるのなら。心からそうしたいと思う。


以上、唐突に書き連ねた、将来の夢についての話。