最近家でお酒を飲む機会が増えた。

お酒は特別好きではないけど嫌いではないというくらいで嗜好品とするほどではなかった。飲み会は嫌い。

ただビール、特にエールはほろ苦くも香りが良いので好きで他のお酒に比べるとよく飲むほうだと思う。最近それを飲む機会が増えた。

お酒を飲んだあとのふわふわした感じがほしくなる。暑いので家では冷房を付けているけど、そうすると温度をいくら調整しても肌寒く感じることがあって、自分を取り巻く空気に嬲られるようにではなく、内側から湧き上がるような熱さが欲しくて、ということもある気がする。

あと泣きたい。泣き上戸でもないし、そもそもお酒を飲んで感情の栓が緩むことはほとんどない。けど、家でお酒を飲みながらアニメを見ているとなんかたまに感極まることがある。といっても、いつもより少し感じやすいかな? くらいの違いでしかないけど。

気持ちの面で抑圧されているなと感じることが多くて、しかしそれを言う然るべき相手もいないので、適切に毒出ししていかないといけないとここ1〜2年くらいで学んだ。

ストレングスファインダーをやってみたところ特徴の1つに「共感性」が挙げられて、アドバイスとして「他人の感情を自分のものとして受け取りすぎると処理しきれなくなってしまうことがあるので、適切にリフレッシュをしよう」みたいなことが書いてあって、たしかに自分が不調を感じるときはだいたいその前に周りで他人の不調があったなと思い至った。

ちなみに他に自分でもそう思うしまたいろんなところで書かれているけど「共感」という性質はあるにせよ「同情」という性質は自分にはないと思う。

他に挙げられた特徴として「原点思考」「学習欲」が挙げられていて、これらと「共感性」が組み合わさるとどういう風になるかというと、他人の思考を分析的に掘り下げようとする。どういう出来事があって、どういうシナプスが繋がって、結果としてこの人はこういうことを考えているのか、こういう価値観でものを見るのか、というような。

しかしそういう風に見るようになったのは最近の話で、昔はもっと同情的な見方をすることも多かったと思うし、そのぶんインプットがきつくて疲れることも多かった。

普段職場でしか人と接しないので愚痴を言う相手も機会もないし、そもそも日々の小さな穴がいつか大きくなって将来の自分に暗い影を落とすのではないかという妄想めいた不安にいつも襲われていること、それから逃れたいけどどうしたらいいかわからないし、いま目の前にいるあなたに話して解決することも気が楽になるとも思っていないこと。それらをまるっと話す気にはなれず、毎日、不完全燃焼が続いている。

なのでお酒。お酒を飲んで少しだけ感情的になる。感情的になる練習。そういうのを続けている。

いまは酔っていない。

博多

先週末は博多に行ってきた。

凛として時雨のSOSOSツアーでとんぼ帰りして以来だけど、あの時はろくに街を見て回れなかったので実質初めて。とはいえ今回もカンファレンス (YAPC) で1日居ただけで、観光らしいことはできなかった。蒸し暑くなければもっと見たかったけれど。

明けて日曜日は尾道に寄って帰った。ちょうど1年ぶり。最近駅舎の建て替えが始まって、仮駅舎になっていた。初めて尾道を訪れたのがもう6年前で、それ以来、行き慣れた駅だったので寂しい。

海辺を歩いてまわったり、千光寺公園を見てまわったり、御袖天満宮へ参拝したり。蒸し暑かったけれど海から吹き抜ける風が気持ち良くてだいぶ楽だった。とはいえ半日歩きまわっていたら汗だくになったけれど。

海辺のベンチに座って向島を眺めながらぼんやりする時間が好きで、こういう時間をもっと増やしたい。

6月24日

紫陽花を見たいなと思って三室戸寺に出かけた。

昼は同僚に教えてもらった清水五条の川沿いで食べた。ライチティーがおいしかった。蒸し暑い。

京阪に乗って宇治へ行く。三室戸で降りようかと思ったけどバスに乗る方が早そうだったので宇治まで乗る。

宇治に着いたら思ったより涼しい風が吹いていたのでやっぱり歩くことにした。源氏物語ミュージアムの傍を通って住宅街を歩く。

三室戸寺のあじさい園はかなり人が並んでいて辟易した。見頃できれいだったけれど、特に植栽を凝っているわけでもなく品種が珍しいわけでもないので、また行かなくてもいいかな。植物園のほうが西洋の品種もあって見所が多い。

帰りは京阪宇治から近鉄、地下鉄烏丸線を乗り継いで四条烏丸まで戻った。そのあと夕食を食べようと思っていたところは当てが外れて蒸し暑い中をけっこう歩く羽目になり悲しい気持ちになった。

6月25日

夕方から雨が上がる予報だったので植物園に行くつもりで昼すぎまで先週までのアニメを見ていた。

準備をゆっくりしすぎてしまい、植物園の入園時間に間に合わなくなってしまい、どうしようか悩んで松尾大社に行くことにした。紫陽花が咲いているらしいし、月読大社にまた行きたい。

壬生寺のバス停から松尾大社に向かう京都バスの路線に乗る。けっこう遠回りなので時間がかかったけれど普段自転車で通るあたりを車窓から眺めるのは新鮮で楽しい。

途中、いきなり豪雨になってびっくりした。松尾大社前まで弱まることはなく、降りてからしばらく阪急の駅で雨宿りした。

雨足が弱まってから参拝して、よく見るとあじさい園は16時で入場終わりと書いてあった。

雨が上がった後の境内はやけに静かで神域の存在を信じたくなるものだった。いつか来たときは山吹が綺麗だったなあ、またあの季節に訪れたい。

雨上がり、わりと涼しい空気を感じながら月読大社まで歩く。鳥居の隣に咲いていた紫陽花が思いがけず綺麗で、昨日の三室戸寺や今日の外れた予定の帳尻が整った気がした。

参拝したあと市街の方を振り返ると雨雲にディフューズされたのっぺりとした白い空が広がっていた。雨の後、ああいう顔をした空から注ぐ光の柔らかさもまた綺麗で、なかなか梅雨を嫌いになれない。

しばらくぼーっとしていて、そろそろ帰るかと軒下から足を踏み出せば霧雨が降っていることに気がつく。おやと思い門まで歩いていったところで途端に雨足が強くなり、身動きがとれなくなった。

今日は随分と気持ちが凪いでいて、雨粒が葉を叩き滴る様をゆっくり観察することができて、雨宿りに退屈しなかった。

正直、1年くらい生活するだけの貯金があればとりあえず実家にでも帰るかって身軽にいけるはずで、それができていないということはつまり貯金がない、ひいては金銭の懸念があるので身動きがとれていないということなんだよな。
最近、高い買い物をしてしまったし。

それさえどうにかできればさっと動きたい。

6月だけど空梅雨で雨が降らず湿度もあまり上がらなく過ごしやすい。むしろ朝晩は冷えて体調を崩しそうならくらいである。

しかし週末の空はだんだん濁りはじめたし、過ごしやすいというのも相対的な話であり日中出歩けば疲れる程度には暑い。

それに加えて最近はいつどこへ行っても観光客が多くてげんなりするので、京都市内で出かけて写真を撮る意欲が減退している。

そういう事情もあったりして、最近引っ越そうかなと考えている。仕事のことは深く考えずに、住む場所を変えるとしたらどうしたいだろうかということを考える。

ちょっと前は適度に栄えているところのほうが生活に困らず飽きも来ないだろうからそういうところに住みたいと思っていて、実際そういう条件に合うので京都に住んでいる。

しかし人が多すぎて週末を家で過ごしたり京都の外で過ごす時間が増えるにつれて、そんなにこだわらなくてもいいかなと思った。

せっかくの機会なので京都を出てもいいかな。